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2005/02/24

サポーターという言葉の重み

さて、昨日は、「サポーターとはなんだろう」という議論が
繰り返し起こることは、決して悪いことではないだろう、と
いうことを書いた

では、こういった議論の中でよくある、具体的なアクション
の濃度への配慮なく、「み~んなサポーターと呼んでしまっ
てもいいやん」
という意見は正しいかと言うと、私としては、
(最近改めて考えてみて)やや否定的である。

というのも、サポーターという言葉が辿ってきた歴史を一応
知っているからだ。


もともと「サポーター」という語は、川淵チェアマンによって、
既存の、特にプロ野球との差別化というマーケティング戦略
によって、提唱されたもの
である。
その際には、ファン、観客全体の単純な言い換えとして、使
用されていた。
だから、この当時であれば、別に「み~んなサポーターで良
いやん」と言っても、違和感はさほどなかったであろう。

もちろん、当時でも、その中に応援アクションに濃度の差は
あったと記憶しているが、ゴル裏でさえチアホーンが鳴って
いたくらいだから、さほど問題ではなかっただろう。


しかしその後、Jリーグ“バブル”がはじけ、「サポーター」
と呼ばれた観客全体がシュリンクをし始めた。
そして、同じ「サポーター」という言葉で括られていた中で、
薄い層、“単なる”観客という上澄みのレベルの人たちは消
えていき、残ったのは、所謂コア、濃度の濃いファンの人た
ちだった

つまり、この頃には、観客席にいる人全体を、同じ「サポー
ター」という語で呼んでも、Jリーグ初期とは異なり、その
中には、薄い人たちはほぼ含まれない事態になった。
つまり、この頃にJの観客席に残った「サポーター」は、明
らかに濃いファン、“バブル”がはじけて逆風になっても、
それぞれのチームを支え続けようとする、より深い意味での
“サポーター”層という事態になったのだ。

そして、この当時の逆風の中、生き残った“サポーター”の
方々は、まさしく戦う選手たちを鼓舞し、一緒に闘うという
具体的なアクションを重ねていった。
さらに、横浜F/横浜FC、清水、平塚/湘南のサポを筆頭
に、他のチームの生き残った“サポーター”たちも、スタン
ドの外でも、チームの存続や発展を支えると言うアクション
にまで昇華をさせていったんだ。

つまり、今、一般にイメージされる“サポーター”像っての
は、このハードルの高い時期に生き残った“サポーター”た
ちが日々積み重ねたアクションこそが築き上げたものなんだ
と思う。

当初、川淵チェアマンに与えられたにすぎない「サポーター」
という用語を、まさに今イメージされるような語に意味を付
与してきたのは、この雌伏の時期の5~6年に活動をしてき
た人々に他ならない訳
だ。
「サポーター」という語にリアルな意味を与えてきたのは、
俺たちだ、という誇り。
それが、きっと彼らにはあるんだと思う。
(私自身は、その活動の長さだけはあるが、質的なものに
 ついては、そこまでの自信はないけど)

その結果、「サポーター」という語に、非常に重い意味を感
じているんだと思う。

だから、今、現在の状態において、初期のJのように「サッ
カーでは、観客み~んなをサポーターと呼べばいいじゃん」
というのは、この雌伏の5年を経過してきた人たちに対して、
やっぱりリスペクトが足りないと言えるんじゃないかなぁと
思う。

13年を経た文化を持つ日本サッカー界において、こういう歴
史的プロセスを少なくともふまえた上で、「サポーター」と
いう語を使った方がいいんじゃないかな、と思う。

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コメント

こんばんは。
以前に平成の洛中洛外、でTBとコメントを
戴いたものです。
このblogのエントリと同じ内容のお話を
先週末、「摩耶」で伺いました。
お話を伺ってすぐに、もしかしたら・・・とは
思っていたのですが、言い出しそびれて
しまいました。大変失礼を致しました。。
お食事の前に雪の中、私の友人と3人で
歩きましたよね!
うわさの「摩耶」に私は初参加だったのですが、
楽しかったです。お料理も夜景も素敵!!!
またお店でお会いすることもあると思いますが、
ブロガーとしても今後とも
よろしくお願い致します。
ラ・トゥールのentryも楽しみにしております!
長々と私信をすみません。
このコメントご覧になったらdeleteして下さい。

投稿: はな | 2005/02/28 21:30

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