いい加減にしてほしい「○○○ジャパン」
どうやらオシムのサッカー日本代表の監督就任と
いう流れは、本格化してきているようだ。
メディアなどでは、「オシム・ジャパン誕生」などと
言う表記が乱舞することになるんだろう。
しかし、代表チームを、「○○(監督名)ジャパン」
という表現が、私は大嫌いだ。
そして、嫌いと言うだけではなく、その表現自身が
間違っていると確信している。
私は、このブログで「ジーコ・ジャパン」という表現
は一切していないはずだ。
と言うのも、サッカー日本代表とは、監督個人の
占有物ではないと、考えるからだ。
サッカー日本代表とは、まず、日本でサッカーを
している全ての人々のもの。
日本でサッカーに関わる人々のもの。
サッカーを愛するファンのものだ。
そして、日本代表とは、これらの過去人々から現
在の人々、そして未来の人々へと連綿と受け継
がれていくものだ。
例えば、ブラジル代表は、「パレイラ・ブラジル」と
か、「ザガロ・ブラジル」などと呼ばれたか?
ドイツ代表も「フェラー・ドイツ」とか「クリンスマン・
ドイツ」などと呼ばれたか?
いつの時代も、ブラジル代表はブラジル代表であ
り、ドイツ代表はドイツ代表だ。
監督などを超えたところに代表の不可侵の価値は
あるし、代表チームとしての永遠の継続の中にこそ
代表としての経験の蓄積が産まれてくるのだ。
それに対して、日本がよく使う「○○(監督名)ジャ
パン」という表現に、ファン、マスコミはもちろん、
選手たちまでが、もしかしたら拘束されてしまい、
監督が変わるごとに、あたかも別のチームであるか
のごとく、認識してしまうのではないだろうか。
「オフト・ジャパン」はドーハで終わり。
「岡田・ジャパン」は、ジャマイカ戦で終わり。
トルシエが積み木を組み立てて、つくりあげた「トル
シエ・ジャパン」も、雨の宮城でいったんおじゃん。
今回の「ジーコ・ジャパン」も、別の積み木も持って
きて、ジーコが別のものをつくりだした。
その結果の今大会の失態とも言える戦いぶりは、
あくまでも「ジーコ・ジャパン」の失態にすぎず、
「オシム・ジャパン」になれば、関係なくなる。
監督が変わるごとに、それまで積み上げたものを
リセットして、またゼロから作り直し、だから悪い点
も自動的に解消される。
そういうイメージになっていないだろうか。
(逆に言えば、良い点も、ゼロから作り直しになる)
でも、それは違うのだ。
これではだめなのだ、
これでは、それまでの日本サッカー全体の経験の
蓄積が、次の日本代表に生きないではないか。
監督よりも、チームが大事なのだ。
日本サッカー界全体の、そして日本代表という継続
していくチームとしての成長が大事なのだ。
監督に関係なく「なでしこジャパン」という名で継続
していく女子サッカー日本代表と同様に、男子サッ
カー日本代表の方も、はやく「○○(監督名)ジャパン」
から脱却をしてほしい。
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