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2007/03/27

例えば、日本テレビは、サッカーの敵なのだろうか?高校サッカー編②

①から続く

高校サッカー選手権の活性化は、当時のサッカー界にとっても大きな課題でした。

というのも、当時は、大学受験の関係で、新しく発足したインターハイの方が高校生活最後の大会として位置づけられるようになっていたからです。
インターハイ予選は夏前に終わってしまうので、技術や体力が伸びるはずの時期に、翌年4月の大学スタートまでぽっかりとブランクができ、各選手のサッカー生活にとって大きなマイナスになります。
逆に、高校選手権までサッカーを続けてくれれば、技術、体力、モチベーションとも低下することはなく、高校サッカー選手たちのレベルアップにつながり、日本サッカー界の底上げにもつながると、サッカー現場からも期待されていた訳です。

そこに救いの手を差し伸べたのが、日本テレビ・坂田氏だったのです。

もともと日本テレビの入社試験の最終面接時に、「野球をやってるのは日本とアメリカだけ。サッカーはワールドワイドなスポーツですから、これからはサッカーの時代が来ます」と言い放ったという坂田氏。

巨人とプロレスの日テレの中にあって、サッカー中継への思いを持ち続けた坂田氏は、「ゆくゆくは”夏の甲子園、冬の高校サッカー”と言われるようにしましょう」という言葉とともに、大会継続が危機を迎えていた高校サッカー選手権を讀賣新聞・日テレで引き受けて、全試合中継するという企画をスタートしました。

この企画が軌道に乗り、日本テレビが高校サッカー選手権をメジャーにできれば、インターハイを花道にする高校生が減る可能性が大になるということで、そのために坂田氏はさまざまな試行錯誤をしたそうです。

当初、まったく視聴率が取れなかった理由を、坂田氏は以下のように考えました。
まず、スタンドに客がいない。テレビでサッカーの試合をやっているが、スタンドが閑散としているので、画面から熱気が伝わってこない。そのために、視聴者は面白いとは思わないから、あっさりとチャンネルを回してしまう。
だから、視聴率を上げるためには、観客席を満員にして、その熱気を画面から伝えるしかない。

そこで、坂田氏は、出場高校を訪ね、全国を駆け回ったそうです。
各校の教職員会議で協力を依頼したり、生徒会長に「サッカーは素晴らしいスポーツだ。野球だけではなく、サッカーも応援してやって欲しい」と伝えたりと。

そんな坂田氏の熱意にこたえて応援に駆けつけた高校に対しては、「一生懸命応援してくれる人々に何か恩返しがしたかった。それがハーフタイムのインタビューでした。その模様が地元で流されれば『テレビに出た』ということで話題になると思った」と、ハーフタイムにインタビューコーナーを設けたりした。
また、地元・立命館大学の応援団にお願いして、応援団が来ない学校を応援してもらったこともあったそうだ。

さらに、少しでもテレビ映えがするように、応援団全員をバックスタンドに入れたり、メインスタンドに入った一般客もバックスタンドへ誘導したりもした。

しかし、それでも観客数、視聴率ともはかばかしい改善が見られない。

そこで、最後の手段として、遂に高校選手権の”首都圏開催”が大きく浮上する。

坂田氏は、それまで長い間、関西の関係者によって支えられてきた大会を引き剥がして首都圏へ持って来るからには、関西の人々のそれまでの努力に報いるためにも、大会のグレードを高めるために、会場を国立競技場にする、ということも推し進めた。

そして、1977年、第55回大会から、遂に、首都圏開催・国立競技場での決勝戦という場を準備されることとなった。
また、大会テーマソング『振り向くな、君は美しい』も、この大会からの導入であった。

こうした坂田氏の努力へのご褒美でもあったのであろう。

首都圏開催初のこの大会は、日に日に盛り上がりを見せ、2年前に東京に初の優勝旗を持ち帰った新鋭・帝京の西が丘での試合や、天才・水沼貴史を擁する前年優勝の名門・浦和南の大宮での試合など立錐の余地がない状況となる。
さらに、関東・静岡の好チームがその実力を発揮し、期待通り勝ちあがり、浦和南は準決勝で帝京をPK戦で下し、さらに決勝戦では、ブラジル式のショートパスサッカーで、当時の高校サッカー界に昨年の野洲高校以上の衝撃を与えた静岡学園を、5対4という壮絶な打ち合いで退け優勝、2連覇を飾った。
この一戦には、なんと国立競技場には5万人を超える大観衆が詰めかけたという。

こうして、高校サッカーの再活性化、そしてその舞台に憧れて毎年のように逸材が生まれてくるようになったのだ。

もちろん、坂田氏も、単にサッカー界のためだけを考えた訳ではなく、日本テレビ・讀賣グループとしてのビジネス上のメリットも考えていただろう。
また、高校サッカー選手権の突出したメディア活用の結果、日本サッカーに「高校サッカーでの燃え尽き症候群」という、新しいいびつな構造が生まれたことも指摘しなければならない。

しかし、日本テレビは、当時はまったくビジネスのタネではなかった(高校)サッカーを、ある程度の期間投資を続けて育てていく、ということをおこなっていたのだ。
サッカー界にとって、そしてサッカーファンにとって、感謝すべき功績があったことは間違いない。
この歴史的事実だけは、知っておいてほしいと思う。

<以上、私がある講演で坂田氏からうかがった話と、田中孝一著「サッカーの物語―一個のボールにも熱いドラマがある」などより、まとめ>

Jリーグ開幕後のサッカーの集客力のUPを強調するためもあるのでしょうが、それ以前サッカーで国立に客が入るのは高校サッカーだけだったという言い方をする人がよくいる(サッカーライターにもいるし、一時期ラグビーライターがサッカーとの人気の違いを主張するために、「国立を満員にできるのは、ラグビーだけ」と言っていた時もあった)のですが、67年のメキシコ五輪の予選の韓国戦や、メキシコ前後のサントスとか、ホットスパーの来日試合、ペレのさよならゲーム・イン・ジャパンとかはもちろん、この前年の76年のモントリオール五輪予選の韓国戦ですらたしか4~5万とかで一応国立が埋まっていましたからね。入る試合には、入っていたのよ。

野球批判派の代表格としての「日本の国民的スポーツは野球か?それともサッカーか?」の最新エントリーにTBしておきます。

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