先人への一定のリスペクトを忘れないで欲しい 例えば讀賣クラブ
なんか、最近、心ならずも野球擁護的やメディア擁護的なエントリー、さらに他のブログへのコメントなどをしているような気もします。
が、なぜこんなエントリーやらコメントをするようになったかと言うと、どうも現在のスポーツにまつわる状況(プレーそのもの、リーグ経営、チーム運営、メディアとの関係、報道など)に対する批判(一部誹謗になっているようにも感じます)が、現在にいたった経緯に対する認識が不足し、その経緯を生み出したスポーツに関わる先人へのリスペクトが欠けているような感じがするからなのです。
例えば、サッカーで言えば、ワールドカップドイツ大会での日本代表を率いたジーコ監督。
たしかに4年間のチーム作り、そしてドイツ大会での采配は、問題があったのは間違いが無いでしょう(もちろん、ジーコの責任“だけ”ではありません)。
ですから、その部分、つまり代表監督としての手腕に関する批判はいくらあっても仕方がないと思います。
しかし、その批判の流れの中で、選手としてのジーコ、また鹿島アントラーズのチームづくりをしたジーコの過去まで否定するような言説が飛び交っていました。
また、国内のプロ野球における長嶋。私も、決して彼は好きではない。
ある意味、プロ野球とメディアとの癒着や、プロ野球への問題点への言及を忌避させる見えない力の象徴、として、批判の対象になるのも仕方が無いと思う。
しかし、もう少し早い時代の力道山のように、昭和30年代から40年代にかけて、たしかに日本中のかなりな人々に、勇気や感動を与え、鼓舞した、ということ。これは間違いがないようです。
そんな人間に対し、その“象徴”の消失こそが現状の問題あるプロ野球をめぐる構造の崩壊に近づくからと言って、いくらなんでも「早く死ねばいいのに」は、やはりゆるされる発言ではないと思います。
もし、そういった先人が作り出した組織・秩序が、彼らが居座ることで、周辺状況の変化に対応しようとせずに、さまざまな問題を巻き起こしてきた場合は、当然その問題を指摘した上で、(もし彼らが“老害”に堕している場合は、組織から排除せざるを得ないかもしれない)改革し、新しい秩序をつくらざるを得ないでしょう。
しかし、その際に、そこで起こっている問題への容赦ない指摘と、彼らへの人格攻撃、特に彼らの過去の業績までリスペクトを失い否定することとは、分けて欲しいと思うのです。
さて、そういった誹謗の対象となるものの代表格のひとつとして、サッカー界では、ベルディがあるような気がします。
Jリーグ創成期に、Jリーグの理念と真っ向から対抗し、企業名露出への拘りを見せ、放映権のリーグ一括管理に対して反発し、川淵チェアマンをファシスト呼ばわりした、当時の讀賣新聞社長ナベツネの印象が強く、サッカー界における反動勢力のような感じで受け止められてきました。
しかも、その後、東京へのホームタウン移転問題などで、さらに悪印象を高めました。
しかし、実際には、ベルディの前身、讀賣クラブこそ、企業チームからの脱却を目指した、Jリーグの理念の先進事例であり、現在の日本サッカーのある程度の隆盛を築いた基盤のひとつだったのです。
現在、東京ベルディ1969と、創設年の1969年をチーム名に刻み込んでいる訳ですが、以前紹介いたしました日本テレビの坂田信久氏のインタビューによると、
日本サッカー協会、当時は日本蹴球協会だったんですが、その時の会長だった野津謙さんが、讀賣新聞社会長の正力松太郎さんに、こういうお願いしたわけですよ。『日本はメキシコ五輪で銅メダルを取った。今度はワールドカップだ。そのためにはリーグのプロ化が必要。そこでプロ野球の巨人軍を持っている、讀賣グループが先鞭をつけてほしい。5年後くらいには、実業団のチームもプロ化するから』と。確かに、こちらが協会にたきつけたところはあると思うんですが、でも間違いなく野津さんからの依頼があって、讀賣サッカークラブは誕生しているんです
ということだそうです。
しかも、讀賣クラブ創設に当たっての正力松太郎氏のスピーチがR25に紹介されていたのを、ベルディサポのOoh Aah VERDY!!!さんがエントリーされておいでですが、その内容は以下のようなものだったとのこと。
讀賣クラブは、日本にプロサッカーリーグを結成することを目指すために創設されたものである。
我々はプロフェッショナルな集団として、日本一のみならず、世界一を目指すという姿勢を持たねばならない。
近い将来、日本にもプロサッカーリーグが結成される日が必ず来る。
そのときにはすでにあるプロ野球と切磋琢磨して互いに繁栄することを目指さなければならない。
野球とサッカーのプロリーグの繁栄が、他のスポーツ競技にも良い影響を与え、ひいては日本のスポーツ界が世界に伍するという時代が必ずや来るであろう。
もちろん、スピーチですから、決して本音だけではなく建前も含めて、入念に原稿は練りこまれたことでしょう。また、こう発言していたからと言って、その裏には、野球とサッカーのプロリーグを讀賣グループが支配し、ビジネスに使うという野望もあったかもしれません。
しかし、一方では、この正力という人。
現在のナベツネとは違い、スポーツに対する一定のリスペクトを持ち、まずはスポーツそのものとして発展させることに寄与するというビジョンを持っていたことは間違いないようです。
しかも、この讀賣クラブ。
93年のJリーグの創設まで続いた日本リーグの中では、伝統ある強豪実業団チーム=日本協会の中心企業(三菱=現浦和、古河=現ジェフ、日立=現柏)から、早すぎたプロ、というかノン実業団チームとして、随分と長い間、アウトサイダーとして日陰者扱い、差別を受け続けていたのです。
さらに、野津会長がプロにすると言ってから20年、実業団サッカーは継続し、その間、讀賣クラブは決してビジネスになっていなかったのです。
しかし、そんな扱いの中でも、当時としては、ブラジル風の技術をベースとした、魅力的なパスサッカーを魅せてくれていましたし、クラブチームというあり方、さらにプロフェッショナルなサッカープレーヤーとしてのあり方を日本で体現し続けてくれていたのです。(残念ながら、奥寺さんやカズ、さらに尾崎さん、風間さんなどは、国内では殆ど見ることはできませんでしたから)
ですから、J創設当時のナベツネの発言及びその後のチームとしての各種言動の一部は、サッカーファンとして、スポーツファンとして、腹立たしく思いましたし、いくら批判されても良いとは思いますが、少なくともベルディというチーム、及びそれを支えた讀賣新聞グループの歴史に関しては、サッカーファンの方はリスペクトを持っておいて欲しいのですよね。
なんで、おれ讀賣/日テレ擁護派みたいになってんだろ(--;)
※あ、そう言えば、奥寺さんへのリスペクトも足りないこと、多いよなぁ。最近のサッカーファンの方。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
>正力松太郎氏のスピーチ
正力が亡くなったのは69年ですよ、84歳。
ホントに、クラブ創設を主導したのかな?
>その裏には、野球とサッカーのプロリーグを讀賣グループが支配し、ビジネスに使うという野望もあったかもしれません。
裏ではなく表でしょう。
昭和の時代、朝日毎日との圧倒的な発行部数差を追いつき追い越した。
その過程で、拡販に資するメディア興行をもっとも積極的に次々とうち出したのが、「讀賣新聞グループの歴史」。
力道山のプロレスは、日本テレビ草創期のキラーコンテンツですね。
注意すべきは、讀賣ジャイアンツ戦がテレビの主役に取って代わった時期は何時かってこと。
たぶん、V9の後になるのではないだろうか。
失われし黄金時代をめぐる物語ね。
だから、讀賣首脳には人気リスクヘッジ思考が常にあったと思う。
コントローラブル、かつ将来的に乗り換え可能なスポーツ興行の種まき(讀賣クラブ、高校サッカー選手権等々)が、
単独短期的に赤字かどうかなんて問題じゃなかったのでは。
投稿: K@I | 2007/04/09 23:34
K@Iさん、コメントありがとうございます。
>正力が亡くなったのは69年ですよ、84歳。
>ホントに、クラブ創設を主導したのかな?
これは想像でしかありませんが、讀賣クラブは69年に創設ですから、
創設準備は、少なくとも、1~2年前からは始まっていたのでは
ないでしょうか。
で、正力氏の伝記を読む限り、異常に生命力にあふれた人だったよ
うですし、讀賣グループに関することであればコントロール下に置
かないと許せない人だったようですから、讀賣クラブの創設に強い
関与を果たしていたことも、十二分に考え得ると思います。
讀賣新聞が朝日新聞の部数を逆転したのは、国内メディア史で、
たしか昭和50年代に入ってからだったと学んだ記憶があります。
>将来的に乗り換え可能なスポーツ興行の種まき(讀賣クラブ、
>高校サッカー選手権等々)が、単独短期的に赤字かどうか
>なんて問題じゃなかったのでは。
その通りだと思います。
だから、裏(表?)の意図は別にして、いつ黒転換するかどうか
分からなかったサッカー界に投資をし続けてくれた期間があった
という過去に対して、それなりのリスペクトをしておいて欲しい
と思っているんですよ。
投稿: 六甲びと | 2007/04/10 01:01