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2007/06/24

アメ村のママ、日限萬里子さんの想い出

私も60年代生まれの関西人として、それなりに関西の街づくりの創成期を、リアルタイムに体験しているものとして、アメリカ村ってのは、やっぱり原体験だったわけで。

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とは言うものの、アメリカ村の本当の創成期の70年代初頭なんかは、さすがにホンマの子どもの頃で、伝説の「ループ」にはさすがに足を運んだことはなかった。
しかし、高校生になって80年代に入ってすぐの頃に、当時の心斎橋筋とか神戸の元町、三宮=昔の大人・社会人とは違う、「遊んでいる」大人=20代になっても“ちゃらちゃら”(笑)している人たちが、自分たちが楽しむためにいろいろなお店をアメリカ村のあたりに開いて、経営してるという噂を聞いて、神戸の人間としても憧れていた。
当時の神戸って、やっぱりコンサバな街で、大人ってのは、しっかりとしたトラディショナルなファッションな人が多く、遊んでいる高校生・大学生が年齢的に背伸びしてショッピングに行く高架下なんかでも、今みたいなカジュアルなものではなく、意外にベーシックなものが多かった。
そんな中で、当時の雑誌「ポパイ」にあったようなアメリカ西海岸の徹底したカジュアルファッションを探そうと思えば、心斎橋商店街から御堂筋を渡った、今、アメリカ村と呼ばれる、当時西心材橋とか、雑居ビルの中を巡ったものだ。
今、DJをやってはるマーキーさんなんかも、アメ村内のミニFMのDJをやりながら、サーファーショップなんかもやっていた。

そして、当時はやったディスコ。
これまた、背伸びして、甲南や関学、南女、松陰といった阪神間の遊びのリーダーと交流しながら、『葡萄屋』『ジジック』『ジュビレーション』『パトーナ』なんかに、顔を出し始めたもんだった(キタでは、『ボトムライン』や『ラジオシティ』、神戸では、『ヴィンク』だったなあ)。
さらに、関西発のロック(Charや桑名さん、世良さん、アクションやノヴェラ、シェラザードなど)やフュージョンっつうかクロスオーバーっつうか(大村憲二さん、浪花エキスプレスや99.99、羅麗若など)のライブにも顔を出していた。

さて、そんな中、もっともとんがっていたのは『パームス』。当時のミナミ、アメ村の感覚で言えば、はずれに当たる四ツ橋筋に面した、クラシックなビルをフル活用した、今から思い出しても本当に刺激的な空間だった。
高校生から大学生の頃に、桑名正博とか明石屋さんまなんかのタレントとおんなじ空間にいられたのも、私にとっては懐かしい思い出だ。

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さて、上記で挙げたようなお店をつくりあげ、現在のミナミをつくりあげるのに、ほんまに中核的な存在であった“アメ村のママ”というか、現在のような“ミナミのママ”とも言える日限萬里子さんの本が出て、それを読んでいるとあまりに懐かしくて、『パームス』のあったビルの現状を覗きにいった。
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相変わらず、たたずまいがかっこよいね。
今からでも、このビル、なんとか再活性化できないものかね。
やっぱり大資本ではなくて、日限ママくらいのパワーのある人や無いとしんどいのかなぁ。(この浅尾ビルについては、「まちかど逍遥」さんや「ひろの東本西走」さん」、「Desa Kala Patra」さん、「まち遊び達人への道渋滞中」さんたちもエントリー)

さて、その後、私は大学に入ってからは、今は言葉にするのも恥ずかしい、当時“ヨーロッパ通り”“ヨーロッパ村”と呼ばれ始めた鰻谷エリアの方を中心に徘徊し始め(フレンチカジュアルの『ヌヌシュ』だとか、イタカジの『イタロ』とか)、日限ママの展開するエリアとは少しずれていった。
また、当時、扇町ミュージアムスクエアや近鉄劇場/小劇場がオープンして、一時期、音楽よりも小劇場めぐり(そとばこまち、劇団新感線、ちゃかぽこ調書や売名行為、如月小春率いるNOISE、MONOなど)にはまっていたので、夜遊びの傾向も変わってきたという理由もあった。

さらに、社会人になってからしばらくは、アメ村がガキの街になったこともあり、もっぱらキタを中心に遊んでいて、ミナミに戻り始めたのは南船場の初期、『effi』なんかがオープンしたての頃。
しばらく、南船場の街の成長を感じながら徘徊するとともに、キタの福島や天満などものぞくようになる。

さて、ミナミの街の発展は、心斎橋筋⇒<御堂筋>⇒アメリカ村⇒<御堂筋>⇒ヨーロッパ村⇒<御堂筋>⇒新・アメリカ村(昔の大人なアメ村ではなく、ガキのアメ村)⇒<長堀通>⇒南船場⇒<長堀通&四ツ橋通>⇒堀江⇒<長堀通>⇒新町と、地図上で見ると大通りをはさんで、島状の一区画ごとに移動していくのだが、私が日限ママの店作り、街のたたずまいづくりと再会をしたのは、堀江の『MUSE OSAKA』だ。
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日限さんも、さすがに年齢のせいなのか、あるいは時代の要請を逸早く受けとめたのか、以前につくっていた『パームス』はじめ、その後の『QOO』や『LIFE』のとがった雰囲気とは少し異なる、落ち着いたやわらかな感じの大人な空間だった。
私自身も30代にもなり、とんがりと気取りが少し落ち着き、南船場の『アマーク・ド・パラディ』佐藤さんのつくりだすような雰囲気が好きになってきていたので、日限ママのつくりだす時空間とようやく再会したという感じだった。

しかし、日限ママはつくりだしたもの自身の雰囲気は少しおとなしく、穏やかになっても、新しいものをつくりだすエネルギーそのものは最後まで途切れなかったようだ。
全身にガンが転移しながらでも、街をどうしたらおもしろくできるのか、それを考え続けた人生だったようだ。

たった一人の人間が、そのセンスによって“ほんの一滴”と言っても良いお店・空間をつくりだすことにより、ここまでその街の基底となる雰囲気をつくり、かつ人々と資本の動きをつくりだしたというのは、ほんま稀有な例なのであろう。
その生きた時代と大阪ミナミという場所も、日限ママにとっては奇跡的な出会いであったのだろう。
これだけ、街づくりについて資本の論理が蔓延している時代、今後、日限ママのような、一人で街の流れをつくる人は現れるだろうか。

次世代の、まだ見ぬ新しいママが、どこかの街に生まれてくれることを期待したい。


<本エントリーの他のTB先>
日限萬里子さんがお亡くなりになった件について、エントリーをされている方々に、遅ればせながらTBしておきます。

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