甘酸っぱくも、淡々とした青春映画『天然コケッコー』に、頬もゆるむ
くらもちふさこセンセの名作少女マンガ、『天然コケッコー』が、映画化され、公開されたので、早速見に行ってきた!
一言で、こりゃ名作。
とは言うものの、ハリウッドの大作映画や、『セカチュー』やらの、分かりやすい、ここが泣き所、ここが盛り上がりどころというのを明示してもらわないと、2時間の映画に耐えられない方も、残念ながら大勢いらっしゃるため、少女マンガ特有の空気感を見事に再現昇華した、この作品の見所がわかりにくく、味わいを感じ取れない人もかなりいるのではないだろうか。
それは、最近の少女マンガの不調にも通底しているような気がする。
自分のオタ歴を披瀝するのはどうも恥ずかしいが、私自身だけではなく、私と同世代は、女の子はあまり少年マンガを読まず、一方、少女マンガを読む男の子も、けっこう多かった。
少年マンガが、少年ジャンプの『努力・友情・勝利』に代表される、大事件(世界制覇)やら「男の闘い」をメインにしたシンプルなストーリーで繰り広げられる、汗臭く、フィジカルな心理描写に対して、当時の少女マンガは、繊細で内省的な心理描写と精神年齢の高い、事件の振り幅の小さな小世界のストーリーが全盛(萩尾望都、竹宮恵子、大島弓子、山岸涼子らのベテランに、川原由美子、吉田秋生、成田美名子、篠有紀子、くぼた尚子、秋本尚美、玖保キリコ、小椋冬美、惣領冬美、松苗あけみ、吉野朔実、水樹和佳、内田善美、立原あゆみなど、次々と稀有な才能と作品が登場してきた)で、私にとっては刺激的であり、少年マンガがあまりにも子ども臭く見えた。
だから、少女マンガの世界観、人物設定やストーリー、空気感、心理描写などに、十分に慣れています。
ですが、最近は、女の子も少年マンガをかなり読むようになり、一方では、少女マンガを読む男の子は明らかに減ったようだ。
つまり、少女マンガ的世界観のリテラシーが、どうも最近、衰えているような気がして仕方が無いのだ。
このマンガ/映画は、明確にクライマックスに向かうストーリーがある訳ではない。日常の中に積み重ねられる細かいエピソード、それを主人公の心がいかに受け止めるのか。その微細なひだを丁寧に描きこんでいくというスタイルである。その、あてどなさと言うか、揺れ具合というか、それをリアルに感じていくことこそが、この作品の味わいだと思う。
そこが受け止められない人には退屈な2時間になってしまうのでは、という危惧がある。
山下監督の『リンダ リンダ リンダ』、そして昨年のアニメの最高傑作細田監督版『時をかける少女』を味わえたかどうか。それが、本作も味わえるかどうかの試金石になるのではないでしょうか。
『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』でも描かれた田舎特有の閉塞感や、ややこしい人間模様と、山下監督自身の『リンダ リンダ リンダ』(あるいは押井守監督の名作アニメ映画『うる☆星やつら ビューティフルドリーマー』か)で描かれた、青春時代のうつろさ、瑣末事、けだるさ、終わりなき日常感の掛け算のような映画と表現できるだろうか。
また、主人公の石田そよ役の夏帆が、予想以上の好演。
「わし」という一人称で、ある種の鈍感さ、野太さと、しかし繊細で敏感さを併せ持つ、思春期の少女の、ほどよい温かさを持つ田舎の閉ざされた世界や日常への愛着、愛情、やさしいまなざしをベースとした、心の揺らぎを生き生きと演じていて、心地よい。
また、決してそよだけの物語にはなっておらず、他の6人の子どもたち、さらにはそよの家族、東京からの転校生の大沢広海の母、学校の先生などの、登場人物間の“関係”“間”が、スクリーンからにじみ出てくる。
それは、寄りでワンカット&せりふ⇒切り返して相手のせりふの連続で、せりふ回しを重ねていくという映画的カットつなぎではなく、比較的引きの絵の長回しの中で、複数の登場人物がやりとりをしていくという、山下監督の画角の取り方の産物でもあるような気がする。
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